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自分を取り戻すための闘い
 ミルクがほしいと全力で泣く赤ん坊のように、人間は本来、自己欲求をストレートに表現するものだ。しかし、シンプルで生理的な自己欲求が、やがて成長への欲求や他者との交流の欲求等、さまざまに分化していくと、それらが複雑に絡み合い、自己欲求を素直には表せなくなることがある。そして、自分でも自分がどうしたいかがわからなくなったりする。
 平沼は少し自嘲的に、それと同様の話を語り始めた。
「人は自ら考えて伸びていこうとするものだと、かつて私は信じていました。でも、今は自分の経験から、そんな成長への意欲は知らず知らずのうちに奪われてしまうと思っています。だから、私は自分の前向きな意欲や考えを見失っている社員
には、本来の自分を取り戻すために、ぜひ自分自身と闘ってほしいのです。批判や評価が横行する世の中の冷めた感覚にさらされていると、いつしか考えない人にされてしまいます。そうなったら、与えられた環境にただただ流されてしまう。自分の本質を取り戻せるのは自分しかいません。自分に向き合い、覚悟を決めて自分自身に挑戦することで、自ら考える力、成長する力を初めて取り戻すことができるし、与えられた環境を自分やまわりが幸せになれる場所に変えていくことができるのです」
 株式会社リバイブの三代目社長に就任して半年。若くアクティブな印象の平沼のその発言は熱かった。しかし、最終的に社員を支援する熱い言葉にはなっているものの、彼自身は人の向上心や
主体性は世間に奪われるものだと考えていることが意外に思えた。
 それを問いかけてみると、平沼は隠すことなく自分の歩みを語り始めた。
「私が幼い頃から、父は目に映るものを一刀両断に批判して、きっぱりと正論を述べる人でした。そして、兄弟間では自我の強い兄が感情のままに行動することが多く、子どもの頃の私は正直なところ、兄を恐れていました。そのせいか、人に甘えたり、頼ったりすることが苦手で、家でおいしいコーヒー牛乳を飲んでも、『もう一杯ほしい』とは言えない子どもだったのです」
 一歩踏み込んだ発言の始まりは、さらに意外だった、平沼の考えや価値観には、それまでの歩みが大きく影響しているようだ。






ゼロをプラスにする第一歩
 子どもの頃から人の様子を見て、自分をコントロールする傾向のあった平沼は、中学生までは生徒会長になる等、周囲に期待される自分を演じた。しかし、次第に屈託なくふるまうことが難しくなり、高校受験の失敗を契機に屈折していった。そして、高校時代は仲間と遊びに明け暮れながらも、満足することはなく、つかみきれない自分を感じていた。
 そんな平沼にとって、救いになったのは高校2年を終えて出かけた1年間のイギリス留学だった。 「生活環境を変えることで自分も変わりたいと思っていたので、留学への期待は大きかったです。外国へ行って暮らすことで、新しい世界が広がるんじゃないかと思いました」
 その期待通り、イギリスでの平沼のホームステイ先は、留学生の受け入れに積極的なシングルマザーの家で、様々な国の留学生と居住スペースを分け合って新生活を始めた。1年間の滞在中には、その地域で暮らす人々の気質に触れたり、シングルマザーの恋愛沙汰でホームステイ先を移ったりとハプニングもあって、語学学校の仲間との交流も深まった。
 しかし、海外での生活体験だけで、自分が根本的に変わることはなかった。
「留学期間を終えて帰国したときの自分は、『ち
ょっと外国で暮らした勘違い野郎』でした (笑)。そのくせ、自分に向き合うことは避けていたから、自分が何をやりたいかもわからず、ますます生きづらくなったというか……」
 何とか高校を卒業し、一年間フリーターを経験して、平沼は一旦リバイブで働き始める。しかし、父親に言われて働き始めたに過ぎず、彼自身は生きることに目的を持てなくてつらい時期だったという。22歳になると音楽の専門学校へ入学し、パンクやヒップホップをベースに打ち込みの音楽やユニット活動に浸るようになった。NEIGHBORHOOD(ネイバーフッド)というユニット名で、平沼はDJNIL(ニル)と名乗り、名古屋では大盛況のライブを行って、遠方でのライブツアーにも出かけた。
「NIL(ニル)というのは、スラングでゼロという意味です。“NIL BY MOUTH”という映画があって、その映画の世界が当時の空虚な(ゼロな)自分に合ってるなと思い、DJネームにしました」  格差の激しいイギリス下層階級の若者の退廃的な世界を、映画というフィクションに落とし込んだゲーリー・オールドマンの“NIL BY MOUTH”。その世界を愛する平沼は、当時、壮絶な人生を送り、若くして亡くなるヒーローに憧れたという。「死ぬヤツは格好いい」。しかし、観
客をあおり、ライブを盛り上げながら、一方で彼はそんな世界に甘んじている自分を中途半端だとも感じていた。
「夢と現実の違いというか、若くして死んだミュージシャンに憧れても、自分は死ねないし、生きるなら自分で活路を見出さなければダメだという思いが、次第にふくらんできました」
 25歳のとき、平沼は音楽の道に見切りをつけて現実に向き合うために、再度、リバイブに就職した。愛知万博の頃で東海圏の景気はよく、リバイブも万博解体業者に選ばれていた。入社からわずか数ヶ月後、その責任者として、彼は万博会場のテナントに詰めて、出展企業からの相談を受けることになった。
「大きな試練でしたね。経験の如何にかかわらず、当社の責任者としてそこにいるわけですから、いい加減な行動はとれません。会社からのアドバイスに従い、社内と連携をとって、自分に自信がない分、逆に強気の姿勢でカバーして対応していました」
 緊張感のある日々だったことだろう。けれど、そのくらいの圧倒的な重圧があったおかげで、平沼の腰が据わったことも事実だった。「負けたくない」。そんな気持ちが彼のバネになっていた。







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Revive People 01
代表取締役社長 平沼伸基
ひらぬま のぶき
1980年生まれ。 株式会社リバイブの創業家である平沼家次男として生まれ、葛藤の多い少年期を過ごす。現在は、自らの経験を内省して新たな展開を導く行動力と、合理的な思考を併せ持つ三代目社長として活躍。組織の力を最大限引き出すため、現場を主役にした会社運営を目指す。